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俳人 種田山頭火


「季語」や「五・七・五」という俳句の約束事を無視し、自身のリズム感を重んじる「自由律俳句」を詠んだ俳人。ものすごい酒豪だったらしく、生涯酒を愛し続けた。

 

 山口県西佐波令村(現・山口県防府市大道)の大地主の出身。父は地元の助役であったが、父が芸者遊びに夢中になり、これに苦しんだ母が彼が11歳の時、井戸に身を投げ自殺した。彼のこころに深い傷を残した。
 

旧制山口中学(現山口県立防府高等学校)を主席で卒業し、早稲田大学文学部に入学したが、神経衰弱のため中退した。生家は相場取引で失敗し倒産。財産を売って、父と作り酒屋「種田酒造場」を開始。 1910年(明治43年)結婚し一児をもうけた。

 

1911年(明治44年)荻原井泉水の主宰する自由律俳誌『層雲』に寄稿。
10代中頃から俳句に親しんでいた山頭火は、28歳から“山頭火”を名乗って、翻訳、評論など文芸活動を開始。31歳、俳句を本格的に学び始め、俳句誌に掲載されるようになる。
 

1913年(大正2年)井泉水の門下となる。1916年(大正5年)には、『層雲』の選者に参加。
34歳、実力が認められて俳句誌の選者の一人になる。
 

 造り酒屋が破産し、妻子を連れ熊本市に移住した。古本屋を営むがうまくいかず、1920年(大正9年)離婚。妻子を捨てて東京へ出奔した。その後弟・二郎が自殺。
 

 1923年(大正12年)関東大震災に遭い熊本の元妻のもとへ逃げ帰った。熊本市内で泥酔し、路面電車を止めたところを顔見知りの記者に助けられ、熊本市内の報恩禅寺(千体佛)住職・望月義庵に預けられ寺男となった。

 

1924年(大正14年)得度し「耕畝」と改名、味取観音堂の堂守となる。

 

1925年(大正15年)寺を出て雲水姿で西日本を中心に旅し句作を行ない、旅先から『層雲』に投稿を続けた。

 

1932年(昭和7年)50歳になった山頭火は、おそらく体力的なこともあって、郷里山口の小郡町(現・山口市)に滞在、「其中庵」(ごちゅうあん)と名付けた。体調不良から来る精神不安定から自殺未遂を起こす。その後東北地方などを旅した。

 

1938年(昭和13年)湯田温泉内の竜泉寺上隣りの4畳1間「風来居」と名付けた。、

 

1939年(昭和14年)松山市に移住し「一草庵」を結庵。

 

1940年(昭和15年)生涯を閉じた。(58歳)

山頭火は生地の山口県防府市の護国寺に母フサと共に眠っており、墓石には「俳人種田山頭火之墓」と刻まれている。

 

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