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山口 大内文化 大内政弘

大内政弘(おおうちまさひろ)


大内氏第14代当主。
父は大内教弘
最盛期には周防・長門・豊前・筑前と、安芸・石見の一部を領有した強大な勢力。
応仁の乱には、西軍側の主力として参戦。
文化にも造詣が深く、山口が西の京と呼ばれる基礎を築く。


「大内教弘」は、冠称6年(1465) 幕府の重鎮「細川氏」と対立し、伊代の国で病死した。「大内教弘」の後を継いだ大内政弘は、応仁の乱では西軍(反細川方)の主力として活躍し、講話の際、幕府(東軍)から周防・長門などの守護職を正式に安堵された。

京都から帰国した大内政弘は、東軍に呼応した叔父道頓の反乱により、混乱した領国支配の再建を行うとともに、東軍に奪われた筑前国を回復した。

大内政弘が、博多に在陣していた時の側近の日記「正任記」(しょうじんき)が現存しており、戦時下の大内氏の政務の様子や政弘の日常をみることができた。

大内政弘は、京都から下向した公家・文化人などを受け入れ、準勅撰の連歌集「新撰菟玖波集」の編集に尽力するなど、文化面でも活躍し、大内文化は全盛期を迎えた。没後、家臣たちによって、「拾塵和歌集」(しゅうじんわかしゅう)という歌集が編まれている。

応仁の乱で荒廃した京から、公家、僧侶、雪舟などの芸術家を山口に招き、文化の興隆に尽力した。文明12年には宗祇を招き、連歌会を行なっている。大内文化の代表的な庭園と言われる、常栄寺庭園は、政弘が雪舟に築庭させたと伝えられている。

日明貿易は、堺商人と組んだ細川氏と競合しつつ博多商人と手を組んで遣明船を派遣し、かつ、対朝貿易にも応仁の乱以降力を入れ、これらで得た莫大な利益が全盛をもたらした。

大内政弘は、明応4年(1495)に没した。

菩提寺は、法泉寺とされ(法泉寺は廃寺大内政弘の墓は残る)、連歌師猪苗代兼載は、「あしたの雲」を著して、彼の死をいたんだ。

雪舟は、教弘、政弘の時代に頃の人である。

雪舟の最高傑作と言われている国宝「四季山水図」は文明18年(1486)、67歳の時の作品で、大内政弘に献進された。

雪舟は、作庭にも造詣が深く、現在の常永寺(旧妙喜寺)の庭園「雪舟亭」を作ったと伝えられている。


雪舟庭園(常永寺庭園)

 


雪舟

 

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