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大内文化 大内義隆

大内義隆(おおうちよしたか)


大内義隆は31代目になりますが、この代で大内一族は滅びます。

大内義興(おおうちよしおき)の子で、亨禄元年(1528)に家督を継ぎ、九州平定のために、少弐(しょうに)氏や大友氏の戦いを繰り返した。

天文10年(1541)安芸にて尼子氏の侵略軍を敗送させ、本拠地を討つため、出雲に遠征するが大敗した。その後も軍事的に大内氏の領国拡大をしていくが、大内義隆は、学問や芸能にふけるようになり、領国運営をかえりみなくなった。

大陸との交易を積極的に行い、京都からは公卿や高僧・学者を招き、山口に新たな文化をもたらした。キリスト教の領内の布教を許したのは大内義隆の時代です。

フランシスコ・ザビエルは、天文20年(1549)2月インド総督の使節として大内義隆に対面し、時計オルゴールなどを贈り、布教の許しを得ました。布教の結果、2ヶ月で500人が洗礼を受けたということです。


そのため、経費が多額となり、領内からも不満がつのっていった。

天文20年(1551)、陶隆房を中心とする重臣たちが、挙兵し、逃亡した大内義隆は、長門大寧寺に追い込まれて自刃した。

墓は大寧寺に、菩提寺の龍福寺に肖像画などのゆかりの品々が保存されている。

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大内義興は武人であり文化人
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